障害者アート協会が主催する「アートの輪」というサイトに登録しておいた絵「迷子になった天使」が、ヤマデンの2025年カレンダー12月分に採用され、サンプルが送られてきました。
箱を開けたとき、胸がどきどきして、自分の絵が印刷されたページを何度も何度もめくり返してしまいました。
とてもうれしくて、ありがたくて、しばらく眺めては閉じて、また開いて…そんな時間を過ごしました。
私は統合失調症を患っていますが、障害者になってから、
「アールブリュット」という絵の分野があることを知りました。
アールブリュットはフランスの画家ジャン・デュビュッフェが名づけた言葉で、
「生の芸術(raw art)」とも訳されます。
美術教育の枠の外側にいて、美術市場や流行とはあまり関係なく、どうしても描かずにはいられない衝動から生まれてくる作品たちのことだと言われています。
日本では、とくに障害のある方の作品や、主流のアートシーンとは少し離れたところで描かれている絵に対して、「アールブリュット」「アウトサイダーアート」といった言葉が使われることが多いようです。
一方で、ナイーブアートについて説明している本やサイトの中には、
「ナイーブアートとアールブリュット(アウトサイダーアート)は、似ているところもあるけれど、本来は別の文脈の言葉です」
と書いているものもあります。Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース+1
ナイーブアートの作家は、公募展に出品したり、美術の世界に自分から近づいていく人も多いのに対して、
アールブリュット/アウトサイダーアートは、
社会や美術の制度の外側で、ほとんど接点を持たずに制作している人たち――
そんなふうに区別している説明もありました。
なので、
「ナイーブアートはアールブリュットに含まれない」
と書かれているのをどこかで読んだ記憶があるのも、あながち間違いではなかったのだなあ、
と今になって思います。
そういう意味では、
「私の絵はナイーブアートであって、厳密な意味でのアールブリュットとは言えないのかもしれない」
と素直に認めたほうが正確なのだろうと思います。
それでも私は、アールブリュットという言葉に、どうしても心惹かれてしまいます。
アールブリュットの作品を眺めていると、子どもが全身で描いた絵や、長い人生の終わりに、肩の力を抜いて描き始めた老画家の絵を見ているような、
**「なかなかたどり着けない境地」**を感じることがあります。
上手に見せようとする以前に、魂そのものがキャンバスの上に飛び出してしまったような、そんな生身のエネルギー。
そこには、技術や流行を超えた、魂そのままの芸術性が宿っているように思うのです。
私自身も障害者なので、
「私の絵もアールブリュットと呼んでもらえるのかな、どうかな」と
ついワクワクしてしまう自分がいます。
もちろん、自分から「私はアールブリュットです」と名乗るのは、
少し気が引けます。
本来は、後から第三者がそう呼び始めた言葉でもあるからです。
でも、
「魂からの絵を描く」というところに、
私の志とアールブリュットの精神が、とても近い場所で重なっている
そんなふうに感じているのも、たしかです。
私は、自分から望んで障害を選んだわけではありません。
けれど、不思議なことに、気がつけば「アールブリュット」という言葉に出会い、障害者アート協会のサイトに作品を載せ、その中の一枚がカレンダーに採用される――
そうやって、自分の意識とは別のところで、そっとこの分野に連れてこられたような感覚があります。
魂のどこかで「魂からの絵画を描きたい」と願っていたから、
今の私の状況や出会いがあるのかもしれない。
そう考えると、とてもスピリチュアルで、不思議で、
でもどこか納得のいく流れのようにも思えるのです。
アールブリュットについての定義をきっちり当てはめれば、
私の絵はそこから少しはみ出してしまうところもあるでしょう。
それでも、
魂からの絵を描きたいという願いだけは、
アールブリュットに込められた思いと、深いところで通じ合っている――
そんな気がしています。
いつか、
「すばらしいアールブリュットの作品ですね」と言っていただける日が来たら、
もちろんうれしいです。
けれど、その言葉を目標にするというよりは、
今日もただ、自分の魂に正直な絵を、一枚一枚描いていくこと。
今回のカレンダー採用を、
その静かな歩みをそっと励ましてくれるサインとして受け取りながら、
これからもキャンバスに向かっていきたいと思います。