薔薇が好きです。何本か育てているのですが、手入れが難しいうえに、私はどうも無精者で、なかなか「幸せな薔薇」にしてあげられません。それでも、負けずに蕾をつけてくれる薔薇があります。枝は伸び放題で、きちんと剪定してあげなければいけないのに、「切ったら枯れてしまうんじゃないか」と不安で、なかなかハサミを入れられずにいます。眺めるのは大好きだけれど、育てるのには向いていないのかもしれない──そんなふうに、自分でも苦笑してしまいます。
それでもやっぱり、薔薇が好きです。薔薇は、とても波動の高いお花だと言われていますが、本当にそうだと感じます。部屋に一輪飾っておくだけで、空気がふわっと変わるのがわかります。そこだけ静かに澄んで、目に見えない透明な香りの光が立ちのぼっているような気がします。
薔薇は、感受性のとても強い花なのではないかと思います。こちらの心の状態を、すぐに感じ取ってしまうのです。私の心が沈んでいるときや、どこか無理をしているときには、蕾が長いあいだ固いままで、なかなか開いてくれません。葉っぱの元気が急に失われて、しょんぼりとうなだれてしまうこともあります。まるで「今は無理をしないほうがいいですよ」と、体を張って教えてくれているようです。
反対に、心のどこかがふっと軽くなった日には、同じ薔薇が急に勢いを取り戻します。昨日まで固く閉じていたはずの蕾が、気がつくとそっとほころび始めているのです。うれしいことがあったり、小さな安心を感じたりしたあとに、ふと庭を見ると、花びらの端が静かにほどけています。薔薇は、こちらの心が少し明るくなった瞬間を感じ取って、「今なら咲いても大丈夫」と決めてくれているのかもしれません。
ときには、こちらの不安や迷いをそのまま映したように、蕾のまま黒ずんで枯れてしまうこともあります。その姿を見ると切なくなりますが、「今のあなたの心では無理をしないほうがいいですよ」と、正直な鏡になってくれているようにも思えます。咲いてくれたり、枯れてしまったり。そのどちらも、薔薇なりの精一杯のメッセージなのだと感じます。
薔薇をじっと見つめていると、その香りも相まって、この世のものとは思えないような美しさに包まれます。花びらの重なり具合、色の深さ、柔らかな影。どれをとっても完璧で、「どうしてこんなに美しいものが、この世界にあるのだろう」と不思議な気持ちになります。
そんなとき、私は薔薇がそっと教えてくれているように感じます。
この世には、目には見えないけれど、たしかに天使のような存在がいるのだと。薔薇は、その圧倒的な美しさと、こちらの心に寄り添う不思議な咲き方を通して、「天使は本当にいるんですよ」と、小さな声でささやいてくれている気がします。花びらに差し込む光の加減ひとつにも、「ひとりじゃないですよ」と見守られているような優しさがあります。
うまく育ててあげられない自分を責めそうになるときもあります。でも、伸び放題の枝先に、ふと小さな蕾を見つけると、「それでも咲こうとしてくれているんだな」と胸が熱くなります。私の不器用さや不完全さを責めるのではなく、「今のあなたのままでも、こうして花は咲きますよ」と、薔薇が教えてくれているようです。
薔薇の前に立つたびに、天使にそっと肩に手を置かれているような、不思議な安心感を覚えます。見えてはいないけれど、たしかにそばにいる存在。その存在の気配を、薔薇は静かに映し出してくれるのだと思います。
私の薔薇たちは、決して理想的な育て方をされているとは言えません。それでも、季節がめぐるたびに、少し不恰好でも花を咲かせてくれます。その姿を見るたびに、「完璧じゃなくても大丈夫」と背中を押されているような気がします。
薔薇は、私にとって、天使が本当にいるのだと教えてくれるお花です。咲くときも、枯れてしまうときも、どちらの姿にもメッセージが込められています。今日も庭の片隅で、小さな蕾が、私の心の揺れに耳を澄ませながら、そっとそのことを伝えてくれているように感じます。