私は、どんな宗教にも入っていません。
お墓はお寺にありますし、初詣には神社に行きますし、クリスマスにはケーキを食べて小さくお祝いもします。
でも、どこかの宗教団体に所属しているわけでもなく、新興宗教にも入っていません。
いわゆる「私は○教です」と名乗る感じではなくて、ゆるやかに、静かに、目に見えない世界を信じている…そんなタイプなのだと思います。
それでも私は、神様って、いてくれたほうがいいと思っています。
少し前に、**『神との対話 1』(ニール・ドナルド・ウォルシュ)**という本を読みました。
この本には、人生に疲れ、不満を紙に書きなぐっていた男に、
ある日突然、神が語りかけてくるというエピソードが描かれています。
私はこの本を読んで、
「神は本当にいるのではないか」とわくわくし、
同時に、ふしぎな安心感に包まれました。
その安心のおかげか、気づけば飲んでいた頓服を手に取る回数が減っていきました。
(もちろん、お薬のことはお医者さまの指示がいちばん大切ですが、
私にとってはそれくらい、心が軽くなった一冊だったのです。)
続編もいろいろ出ていますが、個人的には、この『1』がダントツで好きです。
いちばんシンプルで、いちばん心にまっすぐ届く感じがします。
信念を持つというのは、とてもむずかしいことです。
でも、ほんの少しでも「神様のような存在がいるかもしれない」と信じられることは、
そのまま自分を信じることにつながっているのだと感じました。
読み終わったあと、私の自己肯定感は、ほんの少しですが、たしかに上がっていました。
『神との対話 1』は、ずっと手元に置いて、折に触れて読み返したい一冊です。
ここで、はっきり書いておきたいのは、
私はこの本を「宗教の本」だとは思っていない、ということです。
『神との対話』は、
「この教えを信じなさい」と押しつけるような本ではなく、
ひとりの人間と“神”との長いおしゃべりの記録のように感じています。
だから、この本を読んだからといって、
どこかの団体に入ろうとか、
誰かに同じものを信じさせようとか、
そういう気持ちはまったくありません。
むしろ私にとっては、
「自分のいちばん奥にある、静かな神様の声」を
そっと思い出させてくれる本
のような存在です。
ページを開くと、
「本当はどう生きたいの?」
「あなたはそのままで大丈夫ですよ」
と、どこかで聞いたことのあるような、
けれどずっと忘れていたような声が、静かに響いてきます。
それは、私にとって「外側から与えられた教え」ではなく、
自分の内側から返ってきた答えに近い感覚でした。
宗教と聞くと、どうしても
「こうしなければいけません」「これはしてはいけません」というイメージがつきまといます。
でも、私が大事にしているのは、もっと日常の中の、やわらかなスピリチュアルです。
お寺で手を合わせるときも、
神社で柏手を打つときも、
クリスマスにキャンドルを灯すときも、
『神との対話』をそっとひらいて自分の心と向き合うときも、
どれも私にとっては、
見えない世界と、少しだけ仲よくなる時間
です。
私は、特定の宗教を持っているわけではありません。
新興宗教にも入っていません。
それでも、神様や天使や、
私たちを見守っている大きな何かの存在を、
静かに信じていたいと思っています。
その信じ方は、「教団」や「看板」のある信仰ではなくて、
キャンバスに向かって天使の絵を描いているとき、
ふっと背中に手を置かれたような、あの温度で感じる信頼です。
宗教じゃないけれど――
そんな名札のつかない信じ方を抱きながら、
これからも、見えない世界と、
ゆっくり話をしながら絵を描いていきたいと思います。