ときどき、頭の中に美しいイメージが見えることがあります。
正確に言うと、眉間と眉間のあいだ、おでこの奥あたりに、ふっと色や形が立ち上がるのです。
私は統合失調症という診断を受けていますが、そこで見るものは、いわゆる「幻覚」とは違う、と感じています。数秒だけ、美しい色と形のひとかけらが留まって、「なんて美しいのだろう」と見とれているあいだに、すっと消えてしまうのです。
あとからそのイメージを追いかけてスケッチするのですが、追っているものとは程遠くなってしまい、その通りに描けたためしがありません。
先日も、紫色の木の枝葉のようなものが、上からふわふわと降ってくるような絵が、眉間の奥にふっと見えました。それはとても抽象的な形で、スケッチブックを前にした私は、
「どうやって線にすればいいんだろう」
と、少しいらだってしまいました。
それでも、やっぱり抽象的なものって素晴らしいと思うのです。
私のところには、ときどき言葉にもならない、形のはっきりしないイメージが、上からふっと降りてきます。天使の気配や、祈りのようなもの、名前のついていない感情たち。そういうものは、まず抽象の世界のかけらとして現れるように感じます。
そして、その抽象的なかけらを、この世界の具体的なかたちにしていくことが、私の役目なのかもしれないと思うのです。
天使の羽や木の枝、光の筋や花びらとして、キャンバスの上にそっと置き換えていくこと。抽象から届いたひとかけらを、具象の絵に訳していく、その翻訳の作業こそが、私の絵なのだと感じています。
ときどき、天使の顔を描こうと思うことがあります。
そのたびに、「本当に描きたい天使の気配は、抽象でなければ表現できないのかもしれない」と思ったりもします。光のにじみ、色同士の響き合い、形にならないやさしさ。そういうものは、きっちりとした輪郭を持たないからこそ、抽象の世界のほうがふさわしいのかもしれません。
それでも私は、抽象的なものを、あえて具象で描いていきたいとも思っています。
眉間の奥に見えた一瞬の形を、キャンバスの上で「天使」や「木」や「光」として、この世界の言葉に訳していくこと。その翻訳の作業の中に、私なりの表現があるのではないかと感じています。
きっと、完全に同じものを描くことはできません。
でも、抽象から届いたささやきを、具象の絵として少しでもこの世界に残したい。そう思うことが、今の私の心構えです。
私がこの先、本格的な抽象画を描くようになるのかどうか、自分でもわかりません。
それでも、眉間の奥にふっと見えるイメージたちに、
「見せてくれてありがとう」
と、開けた心でいられたらいいなと思います。
数秒で消えてしまう、わずかな時間のイメージたち。
それらは、はっきりした形にはならなくても、どこかで私の絵を支えてくれているのだと思います。
いつか、あの紫色の枝葉のようなものも、
私のキャンバスのどこかで、天使の羽や、夜空の木々として、そっと姿をあらわしてくれる日が来るのかもしれません。